日本とアジアにおける新型コロナウイルス感染症(COVID-19)対策の歴史的文脈 (1) | 東京カレッジ

日本とアジアにおける新型コロナウイルス感染症(COVID-19)対策の歴史的文脈 (1)

2020.06.05
Andrew GORDON
Andrew GORDON

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今回と次回のブログで、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行を理解するうえで、歴史研究は何を提供しうるのかについて考察する。主に日本に焦点を当てるが、台湾と韓国にも目を向け、全体をグローバル・ヒストリーの文脈でとらえる。

 COVID-19による死者数は現在のところ、アメリカと主要な欧州諸国では人口100万人あたり200~500人で、アジア(日本、韓国、中国、台湾など)では5人程度である[1]

 なんと2桁、100倍もの差がある。この差の説明が重要である。感染率の低い国とBCGワクチン接種率の高い国との相関関係など、生物医学的要因も指摘されているが、この相関関係のエビデンスはあまり確かなものではない。論理的で重要なのは、政治的指導者の対応を検討することである。国内の経済的・社会的不平等の度合い、国民の全般的な健康度、医療の全般的質と医療へのアクセスなど、構造的要因も重要である。筆者は別の論考で、そうした要因と歴史的要因が、日本や他のアジア地域が欧州や北米に比べてCOVID-19をうまく抑制できた一因である可能性を指摘した[2]

 これから2回のブログでは、関連のある歴史的な実践あるいは前例に焦点を当てる。そうした歴史的に根づいた習慣的行動が、現在の危機対応における帰結の決定的要因であったと自信をもって言うことはできないが、人々の行動や政策を形作ったのは確かである。結果としてそういう行動や政策が生まれたのかもしれない。そうであるなら、そのプロセスは考察に値する。

 

    歴史的に形成された社会習慣

 COVID-19に関して日本および世界各地のメディアは、アジアの国・地域、特に日本で欧米のような感染爆発を回避できた要因として、歴史的に形成されたいくつかの文化的・社会的習慣を挙げている。メディアが取りあげるおなじみの例は、たとえば、感染防止策としてマスク着用の習慣が以前からあった、あいさつをする時に握手やハグ、両頬へのキス(欧州)ではなくお辞儀をする、日本では玄関で靴を脱ぐ、などがある。(一方、長年の職場慣行の少なくとも1つは、COVID-19に対して日本をことさら脆弱にしているように思える。つまり、どこのオフィスも人が多く、パーティションによる仕切りもなく、机が向かい合って並んでいて、その間をさえぎるものもない。)

 上記の社会習慣のうち1つは、ウイルスの拡大抑制に間違いなく効果的と思われる(もちろん、魔法のような万能薬ではないが)。それはマスクの着用である。少なくとも日本、韓国、台湾、香港、中国に共通する習慣である。英語圏のメディアはこれを、「文化的規範」あるいは「文化的に定着した」習慣として紹介する傾向にある[3]。そうした報道の一部は、マスクの着用は、20世紀初めに感染症対策として始まったものだとしている。しかしながら、そうした認識はある種の文化本質主義に陥っており、欧米諸国の専門家や政策が「アジア」の文化的習慣の形成に果たした役割、つまり、グローバルな文脈を見落としている。歴史的エビデンスを少したどると、マスク着用には19世紀にさかのぼる長いグローバル・ヒストリーがあったことがわかる。公衆衛生上の習慣としてのマスク着用には歴史があり、それは決して直線的な話ではない。明白な立役者たる国などないし、アジアと欧米の明確な対比も最近までなかった。これは、知識と習慣のグローバルな交換に関する複雑なストーリーであり、皮肉なねじれがあって驚かされる。以下に要約するが、いくらか推測も含まれている。

 近代における、健康被害の防止を目的としたマスクの起源は欧米にある。当時は「呼吸器(respirators)」と呼ばれていたマスクがアメリカとヨーロッパで開発されたのである。ルイス・P・ハスレットは1848年にアメリカで、炭塵から鉱夫を守るマスクを開発した。ハトソン・ハードが1879年に作ったマスクは、消防士が煙を吸引しないようにするためだった。スコットランドの化学者ジョン・ステンハウスは1850年代に活性炭マスクを開発し、幅広い用途で注目された。1860年代にアメリカでよく売れた本『The Chemistry of Common Life』には、このマスクを使えば、「健康な人は不安なく病人の部屋を訪ねることができ、衛生管理者は危険を冒すことなく、最も危険なごみ置き場に足を踏み入れることができる」(p.266)と書かれている[4]。1880年代半ばには、「呼吸器」と呼ばれるマスクの販売広告が日本の新聞に出始め、欧米諸国で効果ありと謳われていた。

 こうしたなか、近代医療のシステムと慣行がアジアで整備されるようになると、欧米で学んだアジア諸国の専門家がそうした防護具の使用を考えるのは当然の成り行きであった。徐々にではあるが、マスク使用の経験を重ねるなかで、マスクは感染症拡大の防止に有効かもしれないと、アジアのみならず世界中で考えられるようになった。しかし20世紀初めまで、「呼吸器」は感染症との闘いに特に有効とは見られていなかったようである。専門家の一致した意見は、劣悪な衛生状態が最も危険な要因だというものであった。1894年に香港で流行した腺ペストの場合、悪者はネズミが運んできたノミだった。ドイツで学んだ日本人医師・北里柴三郎はドイツ人医師とともにこの感染症の原因解明に取り組み、ネズミが媒介する病原菌を突きとめた。

 それからおよそ20年後の1910~1911年、満州で肺ペストが発生・拡大し、感染症対策としてのマスク着用をめぐる議論やイノベーションを生みだす重要な時期となった。清朝末期の専門家や役人、東清鉄道に権益を有していたロシア、南満州鉄道付属地を所有していた日本、さらにフランスとイギリスの専門家も加わって、互いにぶつかり合いながらも集中的に、この疾病の解明と抑制に取り組んだが、あまり成果はなかった。日本の当局は、この新たな感染症は腺ペストの一種だと仮定して、主としてネズミの駆除に力を入れた。イギリスで学んだ中国人医師・伍連徳(1879~1960年)は死者を解剖して、その肺にペスト菌を見つけた。伍は、この疾病は呼吸器疾患だと結論づけ、医療従事者にマスクの着用を促した。一般の人々にも勧めたようである。伍は中国で、北部の英雄「ぺスト闘士」とたたえられている。伍自身、その後数十年にわたってそのイメージを高めた。伍の功績は確かに注目すべきだが、彼がマスク着用を奨励したことが、その後、中国やその他のアジア地域でマスク着用が広がったことに直接つながってはいないようである。このエピソードでもう一人重要な人物は北里柴三郎だ。彼は日本の他の当局者と意見が合わず、結局のところ、感染拡大のさなかも、その直後も成果を得られなかったが、伍の言うことが正しいと判断し、伍の疾病対策を精力的に支援した[5]。満州における肺ペスト対応の事例は、知識のグローバルな流れと国家間の競合を考察することの重要性を示し、また、国という単位を解体し、国内の異論に目を向けることの重要性も示している。

 それから10年も経ずして、不当な命名ながら「スペイン風邪」が大日本帝国を含め世界中を襲った時、マスクの着用が広く奨励されるようになった。しかしながら、マスク着用が近隣の満州から直接広がっていったわけではない。むしろ、日本政府はアメリカの医療慣行に従っていた。1918年10月、サンフランシスコ市は、「インフルエンザの感染拡大を防止するために、全市民がガーゼマスクを着用する」よう命じた。違反者は罰金か禁固刑、または両方を科せられた。医療従事者のみならず一般市民をも守る戦略としてアメリカがマスク着用に相当な力を入れたことはよく知られており、今回のコロナ危機においてもメディアで取り上げられた[6]。マスクの着用は当時も世界的な関心を呼び、感染の広がりに合わせてアメリカからフランス、イギリス、そして日本とその植民地へと広がっていった(死者は日本国内で約40万人、植民地の台湾と朝鮮で推定19万人)。

 当時、内務省衛生局が国の感染症対策に重要な役割を果たした。1919年2月、感染拡大と死者増加の第1波が過ぎ去った直後のことだったが、衛生局は「流行性感冒予防心得」と題するパンフレットを500万部以上印刷して配布した[7]。そこには国民と医療機関に対して、次の4つの指針が示されていた。

  1. 病人又は病人らしい者、咳する者には近寄つてはならぬ。
  2. 沢山人の集つて居る所に立ち入るな。
  3. 人の集つて居る場所、電車、汽車などの内では必ず呼吸保護器(「レスピレーター」、又は「ガーゼマスク」ともいふ)を掛け、それでなくば鼻、口、を「ハンケチ」手拭などで軽く被ひなさい
  4. 塩水か微温湯にて度々含嗽せよ、含嗽薬なれば尚ほ良し

 朝鮮総督府と台湾総督府もマスクの着用を推進した[8]。しかし、1919年3月1日に朝鮮で起きた三・一独立運動の記憶がぬぐえず、少なくとも朝鮮総督府は、おそらくは台湾総督府も、1919~1920年の感染拡大に関する情報を広く提供しなかったようである[9]

 このように、日本とその植民地におけるスペイン風邪対策には、マスク着用を奨励する初の国民キャンペーンも含まれていた。さらに研究が必要であるが、そのすぐ後もマスク着用は国民全体に根づかなかったのであろう。朝鮮、台湾、満州では根づかず、おそらく日本でもそうだったのだろう。このエピソードは、種は蒔いたもののすぐには芽が出ないということのようだ。日本では1927年と1931年に、寒冷期のマスク着用を勧める記事が新聞に載った[10]。しかし1957年になっても、東京都はインフルエンザが猛威を振るう中、「マスクが効果がある」という見出しで、特に、百貨店など混みあう場所では、「マスクの値打ちを見直してはどうか」と、新聞を通して訴える必要性を感じていた[11]。マスクの着用はまだ習慣化していなかったようである。

 早期に蒔かれたマスク着用の種がどのように芽生えたのかを明らかにすることに加え、同じ数十年間に感染症対策としてマスク着用が他の国々の社会常識から消えてしまった経緯についてもさらに研究する必要がある。最近、『ニューヨーク・タイムズ』紙に、1937年の映画から抜き出した1枚の写真が掲載された。それは、「ハリウッドでインフルエンザが流行していた時に、カップルが感染しないようマスクをつけてキスする」場面であった[12]。1937年のアメリカで、マスクが映画の中で安全なキスシーンに使われるほど常識的なインフルエンザ対策になっていたとすれば、その後の数十年間に2つのプロセスが並行して逆方向に向かったのはなんとも皮肉なことだ。つまり、東アジアでは健康を守るためにマスク着用の取り組みが進んだ一方、欧米の少なくとも1カ国ではマスク着用の習慣が消えてしまった。

 筆者が思うに、マスク着用の歴史から学べることは、公衆衛生分野に限らずいずれの分野でもそうだが、「文化的」習慣には常に変化が伴い、そしてそれはあらゆるところから取り入れられ浸透していくということだ。そうした習慣は、新たな情報や知識のグローバルな流れを通して形成・再形成される。しかも、情報や知識のグローバルな流れはどこに向かうか知れず、直線的ではない。単純に欧米からその他の地域に向かうわけではないし、単純に過去から現在に向かうわけでもないのである。

 

[1] https://www.statista.com/statistics/1104709/coronavirus-deaths-worldwide-per-million-inhabitants/

[2] https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60513

[3] Tessa Wong, “Why some countries wear masks and others don’t,” BBC News Singapore, May 12, 2020. Ralph Jennings, “Not Just Coronavirus: Asians Have Worn Face Masks for Decades,” Voice of America, March 11, 2020.

[4] James F. Johnston, The Chemistry of Common Life (New York: D. Appleton and Company, 1863) 10th edition. Volume 2, p. 266.

[5] Christos Lynteris (2018) Plague Masks: The Visual Emergence of Anti-Epidemic Personal Protection Equipment, Medical Anthropology, 37:6, 442-457, DOI:10.1080/01459740.2017.1423072. Sihn Kyu-Hwan, “Unexpected Success: The Spread of Manchurian Plague and the Response of Japanese Colonial Rule in Korea, 1910-1911,” Korea Journal (Summer 2009) pp. 165-182.

[6] Paul French, “In the 1918 flu pandemic, not wearing a mask was illegal in some parts of America. What changed?” CNN. April 5, 2020. この記事は、サンフランシスコの新聞から関連ページを抜粋。

[7] Juhee Kang, “A Thorough Study of the Spanish Influenza”: How Japanese Party Politics and Ministerial Conflicts Reduced the Pandemic,” International Journal of Korean History (Vol.23 No.1, Feb. 2018) p. 63 on the booklet. Kangはこの論文で、独自に感染症研究機関を創立した北里柴三郎と、国立伝染病研究所の間で対立が強まっていったことも記述している。そうした対立は、感染拡大期においても、その過程で起きたことを理解しようとする段階においても効果的な対応を妨げた。

[8] Sihn Kyu-hwan “The First and the Second Pneumonic Plague in Manchuria and the Preventive Measure of Japanese Colonial Authorities (1910-1921),” Korean Journal of Medical History 21ː449-476 Dec. 2012 p. 476. この論文は韓国語で書かれており、筆者は英語による論文要旨2ページを参考にした。

[9] 情報源はJuhee Kang。

[10] 「流感予防」『朝日新聞』1927年10月26日、7面。「感冒御用心、マスク・うがいはぜひ必要」『朝日新聞』1931年1月8日、2面。

[11] 「マスクも効果がある 東京都 予防対策協議会で協議 流感」『朝日新聞』1957年11月22日、9面。

[12] Nayeema Raza, “What Single People Are Starting to Realize: what will the first post-pandemic kiss be like,” New York Times May 18, 2020.

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