2つの銅像に見る、日本人の記憶のなかの島義勇 ―① | 東京カレッジ

2つの銅像に見る、日本人の記憶のなかの島義勇 ―①

2021.08.03
Michael ROELLINGHOFF
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北海道の道都・札幌に行くと、高さ4メートルの島義勇像が北海道神宮の一角にそそり立っている。現在人口200万人を擁する札幌市の喧騒をよそに、北海道神宮は観光客ばかりか市民にも人気のスポットだ。毎日、数千人が鳥居をくぐるが、巨大な銅像に目をやる者は多くない。銅像の主は平安時代(794~1185年)の装束を身につけた島義勇(1822生-1874没)。銅像は没後100年の1974年に、札幌の礎を築き神社の創建に果たした島の役割をたたえて建立された。右手に職杖をもち、左手を掲げる姿は、見る人によっては、神道のイメージではなく、聖書のイメージを想起させるかもしれない。モーゼが杖を手に、人々を「約束の地」に導いたイメージと重なるのだ。

銅像の銘板には次のように記されている。

明治二年九月二十日 明治天皇は 東久世通禧長官以下の開拓使を北海道に御差遣になりました これより先 宮中に於て開拓の守護神として 大国魂神 大那牟遅神 少彦名神の三神を御奉斎になり この神々を開拓使に御託しになりました 開拓使は函館に仮の役所を設けましたが 札幌本府建設の命をうけた島判官は 三神の御霊代を自ら背負って険難の陸路を踏破し 同年十月札幌に入り 先づ三神を鎮斎する社地をこの丸山に定めて 新大社創営の大計を樹立し この地を起点として 昔の平安の都に倣って雄大な札幌市街を計画したのであります この銅像は往時の勇姿を再現したものであります(後略)

北海道からはるか南、九州の佐賀県にも等身大を超える島義勇像がある。佐賀城公園の外濠沿いにある銅像は高さ2.5メートル、佐賀城跡に向かって建っている。佐賀城はかつて佐賀藩主鍋島直正の居城であり、後の佐賀の乱では、島と江藤新平が一時占拠した場所である。島は佐賀の乱の首謀者として政府軍に処刑され、城も一部焼失した。島は地方史においてどのように記憶されているのか、島の位置づけはいささか曖昧である。「佐賀の七賢人」の1人として名誉を回復されて久しいが、この銅像は佐賀藩の権力の中心地から少し離れた場所にあり、おそらくは、記憶に残る島の位置づけが複雑であることの表れであろう。事実、2018年に建立されたこの銅像の主は札幌の像より明らかに若い。1869年に札幌の開拓に着手した島ではなく、1858年に蝦夷地(北海道)を探検した時の島である。それは佐賀の乱より16年前のことだ。

 

銅像の銘板にはこうある。

明治維新一五〇年を記念して、明治新政府において初代開拓判官として北海道開拓に貢献した佐賀藩士・島義勇を顕彰し、島義勇の開拓精神と北海道・札幌を世界一の都市にしようとした熱い「志」を今に活かし、永遠に未来へと受け継ぐため、島義勇之像をこの地に建立する。(後略)

2つの銅像は1500キロメートルほど離れていて、1つは、雪まつりとビールで有名な札幌にあって、日本の古代に思いをはせ、もう1つは、陶磁器と水田で有名な亜熱帯の地方都市・佐賀にあって、日本の未来を見つめている。2つの「島」は異なる世界にいるようだ。たしかに、同じ人物を表象しようとしたということ以外に、共通項はほとんどないように思えるかもしれない。しかしながら、筆者は北海道史の研究者として、また島の故郷・佐賀市に4年間住んで知ったのだが、遠く離れた札幌と佐賀は日本の近代史において、第3の都市・長崎を介して深く絡み合っている。

 

帝国主義的構想

日本のいわば「西門」として統治された長崎は、ほぼ江戸時代(1603~1867年)を通して外国に開かれた、本土で唯一の港であった。もっとも、対外交易は長崎に限定されたわけではない。江戸時代、現在の北海道南西部に位置する松前領が日本の「北門」としてアイヌの人々との交易に当たり、アイヌの人々を介して清朝など大陸の人々とも交易があった。蝦夷地(アイヌの自治領)は日本の領土とはみなされず、琉球王国と同じく、日本地図に記されることはまずなかった。それゆえ、幕府はアイヌの人々を日本の臣民とはみなさず、将軍統治の「化外」にある夷民とみなした。そして、アイヌの集落(コタン)は統一国家ではなく、アイヌの人々が定住し、自ら管理する政治単位(本質的には極小国家の集まり)だというのが、幕府の公式見解であった。

ところが、蝦夷地は江戸時代の大半において、函館の松前藩の緩やかな支配下にあり、交易のための外港や軍事要塞が沿岸に点在した。多くのアイヌの人々、特に北海道の内陸や近隣諸島のアイヌの人々は日本の影響をほとんど受けずに暮らしていたが、松前藩による占領後、商人や漁場主により隷属状態に追いやられたアイヌの人々も多かった。

それが18世紀末から19世紀半ばに変わり始めた。欧米の植民地帝国が北東アジアに進出するようになり、幕府の役人たちを動揺させた。こうした迫りくる脅威が最初に顕在化したのは1807年だが、その前に、アイヌ領にあった日本の軍港や交易港が露米会社の襲撃を受けていた。この事件の後直ちに幕府は松前藩から領地を取り上げて直轄領とし、自治領コタンを一時的に日本の直接管理下に置いた。襲撃を命じたのは、露米会社の総支配人ニコライ・レザノフであった。そして、松前藩が(ロシア兵はもとより)露米会社のごく少数の従業員も撃退できなかったことは間違いなく幕府を狼狽させたが、特に不安を掻き立てたのは、ロシアがアイヌの人々を日本人から「守る」と約束するそぶりを見せたことだった。このことは明治初期まで記憶に残り、鍋島直正を長官とする開拓使は、ロシアはこの約束を盾に蝦夷地の植民地化を正当化しかねないと、松前藩のアイヌ搾取をあからさまに非難した。

ロシアの攻撃を受けた時、佐賀藩と福岡藩は長崎警備の任にあり、ひいては、神聖なる日本本土を守る責任を負っていた。ロシア大使を自認したレザノフが2年前に苦々しい思いをしたように、通商・外交関係を求めて日本に来航する外国船は決まって、江戸から遠い南西の港町に追い払われた。日本本土ではあれ、江戸からできるだけ遠い場所と言っていい。そこで外国船は武器を取り上げられ、武装警備隊の監視下で待つことになる。彼らのメッセージは江戸に伝えられるが、交易や外交を求める彼らの申し入れは何カ月もたってからあっさり拒絶された。日本の西門たる長崎は当時、そうした申し入れを押しとどめる防御壁のような存在だった。とはいえ、ロシアの攻撃は明らかに、通商拒絶に対するレザノフの報復であり、幕府の役人(特に佐賀藩士)の一部は、そうした「門」を諸藩の防御壁に戦略的に配置しただけではヨーロッパの砲艦をおそらく阻止できないと、徐々に気づき始めていた。

それを証明するかのように、ロシアの北蝦夷地攻撃からちょうど1年後、イギリス船フェートン号が偽ってオランダ国旗を掲げて長崎に入港し、駐在していたオランダ商館員を拉致し、人質と引き換えに水や食料を要求した。長崎詰めの佐賀藩士らは適切な防御策をとれず、長崎の老朽化した大砲は使い物にならなかったので、要求に応じるしかなすすべはほとんどなかった。

日本近海に現れる欧米の船は次第に増えたが、襲撃事件はなくなり、蝦夷地の主権はほどなくしてアイヌコタンに戻った。しかし数十年後、かつて恐れられた清朝をイギリスが第1次アヘン戦争(1839~1842年)で打ち負かし、香港を併合し、不平等条約を清に押しつけたという穏やかならぬ知らせが長崎に届いた。幕府はこの知らせを隠そうとしたが、こうした高まる脅威に対して国防の近代化を求める声が大きくなっていった。

ところで佐賀藩にはアヘン戦争以前に、そうした国防計画を考えていた者がいた。鍋島の指南役・古賀侗庵は1838年の自著『海防臆測』で、日本の海防について詳述している。アヘン戦争イギリス勝利というショッキングな知らせ以前に、古賀は、イギリスは東アジア地域で恐るべき帝国になっていると認識し、日本本土を守るにはアイヌ領における対ロ警備隊に加え、日本の海防の総点検が不可欠だと見ていた。さらに古賀は、日本がアジア太平洋を植民地化して、積極的に欧州列強の仲間入りをするよう求めた。日本も小さな島国であるが、海軍力を増強し、海外に進出し、交易によって富を増やせば、帝国建設におけるイギリスの経験をそっくり再現できるというのが古賀の提言であった。

古賀の構想に共感した鍋島直正も、アメリカの東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが2年後に強行に浦賀に入港することを予見していたように思えるが、鍋島が1851年に書いたは、幕府のきわめて保守的な外交政策を厳しく非難するとともに、帝国主義的拡大への強い思いを吐露している。

航海無因奈志窮

慨慷常擬百蛮巧

何当一変耶蘇教

都作細戈千足風

航海をせんとするにも機会にめぐまれず、どうして志を保つことができよう。

多くの蛮国を征伐する功績が無いことになぞらえて憤慨する。

いずれ耶蘇教の国々の世界を一変して。

わが国の威風をとどろかせん。

(佐賀城本丸歴史館副館長・古川英文による訳読)

同じく1851年、佐賀藩は近代的大砲の製造に反射炉を使い始めた。その後十数年間、佐賀藩は大型の大砲を造り続けた。ペリー来航後、鍋島直正は長崎の警備に加え、江戸の防備も任され、佐賀の大砲が江戸湾に配備された。これが改革の第1歩となり、ロシアやイギリス、アメリカの日本襲来を撃退するだけでなく、日本の対外進出を可能とする国軍の創設につながると鍋島は信じていた。対外進出には、南方ではまだ植民地化されていないオーストラリアへの進出、北方ではアイヌ領の正式な植民地化も含まれていた。

もちろん、オーストラリアはどうあがいても無理だったが、蝦夷地ははるかに有望であった。実際、蝦夷地は1850年代にまたもロシアによる植民地化の標的となり、幕府はすでに蝦夷地の調査に精力的に乗り出していた。蝦夷地は幕末だけでなく明治初期においても大きな不安材料になっていた。それゆえ全国の大名は、いまだ日本に帰属せず未踏のアイヌ領を探検するために、そしてまた、幕府はいずれアイヌ領を雄藩に分割するだろうと考え、調査隊を北方に派遣した。鍋島直正が1858年に初めて島を北海道に派遣した背景にはこういう事情があった。そして島は、佐賀藩の支配地になるかもしれない地域を調査し、その過程で交易網をつくり上げ、地元の警備を強化しようとした。こうした対外交易によって、佐賀藩は蒸気船団を手に入れるために必要な資金が得られるのではと、鍋島は期待した。蒸気船は蝦夷地の植民地化に投入され、さらには他の外国領の植民地化にも役立つと考えられた。

たしかに、鍋島だけが帝国を夢見た武士だったわけではない。吉田松陰が北はカムチャッカ半島から西は朝鮮半島、南はルソン島に至る日本帝国を思い描いていたことはよく知られている。しかし吉田と違って鍋島は、1869年に明治政府から初代開拓長官に任命され、自らの構想を実現するチャンスを得た。鍋島は開拓長官として北海道を対露防波堤とし、北海道の経済的基盤の拡大に努める。鍋島は北海道についぞ足を運んだことがなく、急な健康悪化で開拓長官を早々に辞任したが、島は第2代開拓長官・東久世と後任の黒田清隆のもと、開拓判官として北海道にとどまった。

その後、島はいくつかの官職を経、1872年には秋田県権令に任命された。長く政治家を務めるかに見えたが、明治政府が朝鮮出兵を退けたことを不満として帰郷し、1874年、政府軍に鎮圧されることになる佐賀の乱を率いた。

 

 

このブログ記事は2篇のブログシリーズの第一部です

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