TOKYO COLLEGE Booklet Series 7
36/60

34 付随する責任を取るのは政治家であるということに、もう一度立ち戻らなければならないと思います。 デモクラシーをアップデートするときに、次のことを考えてみたいと思います。デモクラシーにしてもパンデミックにしても、両方ともにdemos(民衆)という概念が入っています。パンデミックとは、「全ての民衆に」という意味です。つまり、全ての民衆に関わってしまうような感染症にわれわれは直面しているわけです。ところが実際は、全ての民衆といいながら、新型コロナウイルスの被害は格差の問題、貧困の問題に完全にリンクしてしまっています。ですので、パンデミックといいながらも、「全ての民衆に」ということが見えてこない構造を抱えているのです。もしデモクラシーをもう一度アップデートするのであれば、本当に全ての民衆に関わるデモクラシーをわれわれは構想しなければなりません。私は最近、それをパンデミック・デモクラシーと呼んでいます。 そのためには、新しい想像力が必要です。今までのジャン=ジャック・ルソー型の民主主義では、非常に強力な中央集権が想定されていて、一般意志のような「神話」がベースになり、人々の声は一つになってしまいます。はたして、そういうデモクラシーである必要はあるのでしょうか。そうではなくて、トクヴィルがアメリカのデモクラシーで見たような、より分権化されて、それぞれで意思決定がなされるような多様性に開かれたデモクラシーの可能性も当然あります。ひょっとするとわれわれは、幾つかのデモクラシーを考えておくと同時に、その中でパンデミック・デモクラシーの在り方を構想する必要があるのではないでしょうか。 キケロは「人民の健康こそが最も大事な至高の法である」と言いましたが、それほど大事な人民の健康がどのように表象されてきたかというと、最終的には人民が不在の「アデミア」といわれる状態になっていきました。

元のページ  ../index.html#36

このブックを見る