TOKYO COLLEGE Booklet Series 5
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46 沖沖 対立はしていないと思いますが、対極的な立場になったなと思います。 味味埜埜 やはり大きなフレームというときに、どれだけいろいろな人に対して共感を与えるようなフレームになっているかが大事だという気がしました。 福福永永 私は共感という言葉を使ったのですが、非常に危うい言葉でもあるのです。その危うさをお二方はどう考えられているか、聞いてみたいと思っていました。つまり、共感ということで言えば、テロリズムでもシンパシー(共感)は可能だからです。第二次世界大戦前もそうでしたが、暗黒の時代といわれた戦争の経験を支えてきたのは実は共感だったりしたので、共感は必要だけれどもその点をどう考えるかというのはちょっと私も難しいと思っていて、その辺をぜひお聞きしてみたいと思いました。 北北村村 私も先ほど、共感には大きなストーリーが必要と申し上げたように、実は共感はとても危険だと思うのです。先ほどライトな自分事とヘビーな自分事という言葉を使ってお話ししたのですが、比較的安全なところにいながら、自分は当事者だと思っている人たちが感じている共感は、特に危険だと思うのです。 この問題が難しいと思うのは、誰のことをどこまで理解したり共感したりできるのかということです。例えば、みんなが豊かであるために我慢するのかしないのかを考えたときに、例えば家族や親しい人のためには喜んで我慢できるのに、そうでない人に対してはできません。自分の子どもが通っている幼稚園や小学校の校庭はとても楽しくにぎやかに聞こえるのに、知らない子どもたちがいるとうるさく感じるという話があります。そこでは、自と他の間の断絶が生じているわけです。 自分の中にコンフォートゾーンがあって、それが家族や親戚や友人の圏内だったら共感するし大事にしますが、外に対して非常に冷たいというこ

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