TOKYO COLLEGE Booklet Series 5
34/54

32 しまっています。つまり、誰がリスクに弱くて、誰がリスクに強いのかということを含めて、リスクの評価に基づいて人びとがそれぞれグループ化され、そこに社会の側からある種の評価の価値付け、タグ付けがされていく状態に今はあります。 同時に、「あなたの行動が良くなかったから」という形でリスクの個人化が進み、「新しい生活様式にちゃんと従っていればコロナにはかからない」というリスクの私的領域化が起こっています。ですから、安心や安全、健康とともに、何が実際に私たちの社会の中で新しい規範として表れ、それをどういうふうに人々が行動を縛るものとして受け止めているのか、社会の統治やコントロールがどう進んでいくのかということは考えていくべきだと思うのです。 なぜなら、SDGsはもともと、地球上で人が他人や人間以外の生き物と共に生きることを放棄しないために、なさねばならないことを目標化し、具体的な施策を行うことを目的に設定されたものであり、一体何が人間社会にとってのthe common(社会共通・共有基盤)なのかということを議論して確保していくべきものとされているからです。 SDGsがそもそも設定されたとき、そういう社会の不安定さ(グローバリゼーション下のモノ・カネ・ヒトの移動の拡大、労働・教育・健康の保障のなさの固定化)が進むと同時に、政治的な不安定さ(社会のポピュリズムや差別主義的集団の台頭、移民・難民危機の経験)が生じる中で、何が共有・共通基盤なのかをきちんと設定し直す必要があるという危機意識はあったはずです。 それがSDGsにおいて「誰一人取り残さない」が前面に出る一つの理由になりました。だからこそ、持続可能性の実現はそもそも公正・衡平が不可欠であり、セーフティネットとしてのthe commonをどう設定するの

元のページ  ../index.html#34

このブックを見る