TOKYO COLLEGE Booklet Series 3
39/50

37 ようなことまでありました。そういったなかで、科学や技術が、私たちの生の条件を豊かにするように働くためには、専門家と協働していくことがかならず必要です。では、それに必要な方法論とは何か。そのあたりについて先生方からご意見をいただければと思います。 宇宇野野 今回のコロナ禍では専門家が非常に注目され、テレビやSNSを通じて多くの疫病の専門家が積極的に発言し、場合によっては批判を浴びることもしばしばあったのが印象的でした。私は、専門家の皆さんがそれぞれの専門の知見や学問的信念に基づいてさまざまな発言をするのは100%正しいことであり、正当化されるべきだと思います。もちろん学問的に厳しい批判は当然あり得るのですが、そのことについて政治的責任を問われるべきではないと思っています。 政治的責任を問われるのは、政治家です。つまり、政治家が専門家の意見を取り上げるときには、「こういう理由に基づいて採用したのだから、もし判断が間違っていた場合に責任を負うのは政治家である」という条件の下に取り上げるのが筋道でした。ところが、今回のコロナ禍では、世界各地でも見られる現象ですが、しばしばこの境界線が曖昧になっていました。日本の記者会見などを見ても、主役がどちらなのか分からないことがあります。SNSなどでも、専門家の皆さんが自ら傷を負って罵倒を浴びながら、ある種の信念に基づいた発言をしていました。間違いはあるにしても、政治家の方が専門家の陰に隠れるのは実に良くない時代だと思います。 そういう意味では、専門家は専門家として自らの知見に基づいて意見を述べるのですが、最終的に判断するのは政治家です。そしてその政治家は、なぜこの人の意見を採用したのか、その基礎となるデータは何なのかということを常に明らかにして責任を取ることが大前提です。今回の日本の非常に大きな問題は、専門家をそのようにうまく使えていないことです。政治家が専門家を自らの選択の正当化に使うか、必要な情報を専門家から学

元のページ  ../index.html#39

このブックを見る